筑後川に棲む西日本随一の河童で、一族が九千匹もいたとされます。
もとは熊本に棲んでいたが、その傍若無人ぶりに怒った加藤清正に追われ、人畜に悪さをしないことを条件に、久留米・有馬公から筑後川に棲むことを許されます。
九千坊河童は有馬公に感謝し、以後、水天宮(安徳天皇を御祭神とする水の神様。 久留米市京町)の御護り役として、領民を水害から守る事を誓ったとされます。
平家の大将・平清盛が巨瀬入道という名の河童になったという記述が、延宝3年(1675年)に 書かれた「北筑雑藁きたちくざっこう」(久留米藩地誌の初め)の中にあります。
久留米市東部を流れる巨瀬川(筑後川の支流)の主となり、年に1回ほど、妻の二位尼時子と巨瀬川の蛇渕で会う時、川は大荒れ、大洪水になると言われています。
北野天満宮(久留米市北野町)に大切に保管されている河童の手のミイラ。
菅原道真公が京都から大宰府へ向う途中、河童が藤原時平の追討から助けようとして切り落とされた手とする説や、河童から川に引き込まれそうになった道真公が切り落とした手とする説などの逸話が残り、25年に一度一般公開されています。
この他、河童と相撲をとった人の話、諏訪明神から戒められた河童の話、農夫が河童の手を切り落とした話、河童が接骨術を伝授した話、"河童の川流れ"の由来となった弥五郎河童の話、河童が竹の子嫌いとなった話、河童切傷金創膏という名薬の話、水天宮のひょうたんの御守の話、水難から村を守る河童を祀った話など、久留米には数多くの逸話が残っています。